沖縄の魂を描く、完全映画化!

宮森事件とは

1959年6月30日午前10時40分頃、米軍のジェット戦闘機が石川市6区5班・8班に墜落し、その衝撃で撥ね上がり、付近の家々を引きずるようにしながら北西の方向約150m先の宮森小学校のコンクリート校舎6年3組2階の庇(ひさし)に激突、Z機のエンジンの一部が教室の中に突っ込みました。撥ね上がって激突するまでに、6区5班・8班の家々とすぐ隣の2年生のトタン葺き校舎3教室は撒き散らされた大量のジェット燃料で激しく炎上しました。
この事故で18名(内後遺症により1人)の尊い命を奪い、多数の重軽傷者を出し、そして数千人の心に傷を負わした大惨事となりました。


ジェット機の墜落コース 宮森小学校1959年6月頃の配置図
(以下文・図ともに全て石川・宮森630会編 「沖縄の空の下で」より転載)

屋根の瓦が吹き飛ばされた4年1組とエンジンが飛び込んだ6年3組の教室 写真提供:キーストーンスタジオ

1959年6月30日事故当日、米軍人で埋め尽くされ、住民を排除した。
すさまじく炸裂した6区5班の墜落現場 写真提供:伊波 宏氏

全焼した2年生の3教室 ここで6人(2年3組)の子どもが焼失した 写真提供:キーストーンスタジオ

死亡者:児童11名、一般6名
重軽傷者:児童156名、一般54名
全焼:教室3、家屋17、公民館1
損壊:教室2、家屋8、幼稚園使用不能

(右写真 事故現場から住民を排除する米軍 写真提供:伊波宏氏)

あゝこの悪惨事
ゆきて帰らぬ子どもたち
あなたたちをなくして私はとても悲しいです
試練の負荷にたえかねて いくたびか
くずれさろうとするのを人々の情けとはげましにささえられてやっとたええています
もう児童は あなたたちはもう永久に帰らない
私は悲しくてたまらないのです
これは一体どうしたということでしょう
これでよいのか 戦争がすんで十五年もなるというのに
基地の島に住むわれわれ民俗の大きな悲劇と思うのです
三十日火曜日の二時間目までこの美しい学園で先生とたのしくまなんだあなたたちは
Z機の爆音と共に 全身火だるまになり先生に助けてと一声のこして
一瞬にしてこの世から消えさっていった
あまりにも悲惨な事ではないか
私はどうしてよいかわからない
けれど、もうどんなにないたってわめいたってあなたたちは帰らない あゝ私は勇気を出しておちつきをとりもどし あなたたちのめいふくをいのります
どうかあなたたちも安心していって下さい
天国では神様が愛の心をもってあたたかく迎えて下さいます
どうか いつまでも 学校の守り神となって下さい
そして 世界の平和のもと力になって下さい
私はいつまでもあなたたちのめいふくをいのりつづけます
『琉球新報』 1959年7月2日(木)夕刊

1959年6月30日に発生した、米軍ジェット戦闘機墜落事故は、40年目の1999年に事故原因(琉球朝日放送が入手した軍資料により)が明らかになりました。
それは防げば防げた人災だったのでは、と思われます。
事故原因を知った遺族や関係者の嘆き、悲しみ、怒りは益々激しくなるばかりでした。
どうして、その当時、米軍は事実を明らかにしなかったのか理解に苦しみます。
事故から50年余経ちましたが、米軍は、事故によって尊い命を奪われた十八名の御霊や多数の重軽傷者、さらに、家屋を失った関係者に対して、改めて今日的課題として謝罪をすべきだと思います。
そして、民間地域の上空を飛行しないという固い誓いをすべきであると思います。
戦争が終わって六十五年目です。
沖縄の空や海、そして陸から戦争の道具が横行するのは、もう終わりにしませんか。(写真は1999年6月27日『沖縄タイムス』より)

ジェット機墜落事故のことを知った東京都の僧侶佐藤日健氏が武者小路実篤先生にお願いし、地蔵の絵を描いてもらい、それを銅板にして宮森小学校に寄贈しました。
1965年6月30日の7回忌に国場幸太郎氏らによって台座が建立されました。当時の校長故伊波信光氏は武者小路実篤先生に平和教育に役立てたいと、お礼手紙を送りました。さっそく、武者小路実篤先生から手紙が届きました。その手紙の中に「仲よし地蔵」の言葉があり、それを取って仲よし地蔵と名付けました。
仲よし地蔵の碑は、児童達に見守られ、絶えない献花で御霊をなぐさめ、ご冥福を祈り、平和を願っています。

宮森小学校 〒904-1106 沖縄県うるま市石川1-46-1

当ページの写真、文章は証言集「沖縄の空の下で」(石川・宮森630会編)から転載しています。
また証言集「沖縄の空の下で」は本映画「ひまわり」の原案にもなっています。